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結婚詐欺・連続不審死事件、死刑判決

 木嶋佳苗被告に死刑判決が出た。

 うちは地デジ化していないので、一番最初に知ったのはTBS News iだった。
 驚いたのは、「自白や目撃者といった、直接的な証拠がない」のにも関わらず、いとも簡単に死刑判決が出たことだ。
 そして、TBS News iは、「自白や目撃者といった、直接的な証拠がない」の後に「のに」ではなく「ため」と続け、「裁判員らは難しい判断を迫られました」と締めた。
 ここには、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪原則のかけらも無い。
 裁判所にも、報道側にも、その意識は全く無いのか。

 さらに、反吐が出そうなのが、検察側が用いたこの例え話だ。
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夜は星空で、朝起きたら一面、雪景色だったとします。その場合、雪が降っていたのを見てなくても分かります。夜のうちに雪が降ったのだと(検察側)
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 これを分かりやすく翻訳すると、こうなる。
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夜は生きていて、朝起きたら死体とあなたの名刺が落ちていました。その場合、殺した瞬間を誰も見てなくても分かります。あなたが殺したのだと(寿児郎)
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 おお、簡単だな、冤罪を作るのは。
 この例え話を作った検察官は至急脚本家にでも転職した方が良い。
 ご丁寧に比喩と倒置法まで使ってこんなに洒落た文を作れるのなら、さぞかし有望なフィクション作家になれるだろう。


 話はまだ終わらない。翌日の各紙社説である。

 東京新聞は、ほぼ全面的に裁判所の判決を肯定した。
 最後の方に不十分な捜査を指摘してはいるが、どの新聞社も言っている程度のことで、東京新聞ともあろうものが無批判に死刑判決を支持している。
 ショックとは、正にこのことである。

 毎日新聞もそう。
 引っ掛かるのは、「検察は、こうした間接的な証拠を積み重ね有罪立証を試みた」という言い方である。
 先に引用した素敵な例え話も検察による「試み」になるのだろうか。
 言っておくが、これは「試み」とは呼ばない。
 自身が決定的な証拠を掴めないことを認めるばかりでなく、それを曝け出して開き直り、逆手にとって相手を嵌めようとする、これ以上ない厚顔無恥な行いである。
 「達成感がある」と語ったオタクっぽい裁判員を労う言葉まである。

 どうしたんだ、東京新聞、毎日新聞。
 光市母子殺害事件の上告が棄却されたときだって、あなたたちだけは匿名報道を守り抜いたじゃないか。
 その面影は、どこへ行ったんだ。

 朝日新聞に至っては社説で取り上げてすらいない。
 (16日になっても取り上げない。最低と言わざるを得ない)

 意外にも読売新聞が例の例え話に対して批判めいたものを書いている。
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 検察が論告で、状況証拠の評価に関して用いた例え話も、違和感が残る。検察は「寝る前に星空が見えたが、夜が明けて一面雪化粧であれば、雪が降るのを見ていなくても、夜中に降ったことが分かる」と主張したのである。
 裁判員に分かりやすく説明しようとしたのだろうが、想像力で判断してもらいたい、と述べているかのようにも受け取れる。
 証拠だけに基づき判断する刑事裁判の鉄則に照らせば、不穏当な例えだったのではないか。
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 よし。ありがとう、読売新聞。少しだけ、スッとしたぞ。
 と思ったが、最後の締めは他紙と同じような裁判員への労いの言葉……。

 まあ、個人的に労う分には別に文句は無いんだけど、こう、どの紙もどの紙も判を押したように裁判員への労いを書くとは思わなかった。
 裁判員制度に対する批判も死刑制度に対する批判も、どの新聞社説からも見られなかったのは、誠に残念と言う他ない。

 ちなみに読売新聞は、コラムでもこの事件を取り上げている。
 社説と同じように、裁判員制度に対する批判は無いものの、検察の論告に対しては疑問を呈している。
 この「権力に対する批判精神」には一定の評価をしたいと思う。

 日経新聞も同じような論調だったが、先述のヲタ裁判員の言葉が少し前から引用されていた。
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裁判が進むにつれてだんだんつらくなった。だが、逆に期間が長く結束することができ、達成感がある。
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 「結束」……。「絆」という言葉とも重なる。
 「結束」も「絆」も強い力を発揮する。そこには善意しか働かない。
 だからこそ危険なのだ。善意にはブレーキがかからない。そしてそれが複数人になることで「結束」「絆」が生まれ、どうしようもないほどに強くなる。
 結果として、木嶋佳苗という一人の人間を「殺す」という結論が出た。
 それに対して臆面も無く「達成感」という言葉が出る人間に対しては、僕は非常にグロテスクなものを感じる。
 きっとこういう人は自分が誰かを殺す可能性など微塵も考えない正義感にあふれた人物なのだろう。
 立派なことだ。

 各紙社説担当の方々に言いたい。
 出来事をただ伝えるだけだったら、ジャーナリストの肩書を外してくれ。
 社説の欄を使ってまで出来事の報告と、せいぜい無難な意見を書くのであれば、メルヘンな例え話を盾に職務放棄したどこかの検察官と変わりない。
 批判にさらされること、圧力をかけられること、誰かを傷つけることを恐れずに、自分の意見を発信するような、カッコ良いジャーナリズムを、どうか見せてほしい。
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.16 2012 死刑 comment0 trackback0

【あなたの意見】死刑制度バトン【聞かせてください】バトン

Q1 真面目にお願いします。あなたの正直な意見が聞きたいです。
A1 硬派な感じで良いですね。でも他の回答者、不真面目な人も多かったですよ。
 初めて「バトン」なるものにお答えします。よろしくお願い致します。

Q2 それでは最初に、貴方は死刑制度反対ですか?賛成ですか?
A2 反対です。

Q3 反対派にお聞きします。貴方の大切な方が無残な殺され方で殺されても死刑をとなえませんか?
A3 当事者になったら、その加害者には死刑を求めると思います。本村洋さんのように。

Q4 賛成派にお聞きします。なぜですか?
A4 (抑止力を挙げる人が多いですね。もしくは加害者を一人の人間としては見られない人も回答者の中には多かったです)

Q5 死刑制度が無くなると、犯罪が大幅に増加するという意見がありますがどうでしょうか
A5 抑止力の過大評価は、根拠に基づかない「印象」だと思います。まず、それを測ることなど厳密には不可能だと思う。
 ただ、欧米では「抑止力があるとは言えない」というデータがあるようです。

Q6 死刑制度とはどういった効果などを持つものだと思いますか?
A6 取り返しのつかない冤罪を生み出す効果。

Q7 海外では死刑制度を廃止にする国がありますが、どう思いますか?
A7 いわゆるネトウヨさん達が大好きな中国とか韓国とか北朝鮮は存置だから良いんじゃないですか(ごめんなさい、つい感情的になってしまいました)。
 ただ僕は、「先進国が廃止しているから日本も廃止するべきだ」と思っているわけではありません。

Q8 仮に死刑制度がなくなったとしたら我が国はどうなると思いますか?
A8 ほとんど変わらないと思う。良い意味でも悪い意味でも。
 少なくとも「日本オワタ\(^o^)/」という状況にはならないでしょう。
 もう既に日本終わってます氏ね(すみません、また感情的になってしまいました)。

Q9 以上で質問は終わりです。他の方にも回してくれたらと思います。
A9 存置論者でも良いから、ある程度きちんと勉強していて、少なくとも真剣に答えてくれる方が良いですね。
 やっぱり、人の命に関わることですから。

Q10 お答えいただき、ありがとうございました。
A10 こちらこそありがとうございました。
 同意見でも異論・反論でも良いですので、「建設的な」議論をして頂ける方、いたら嬉しいです。
.25 2012 死刑 comment2 trackback0

光市母子殺害事件・上告棄却

最高裁が被告人の上告を棄却して、死刑判決が確定した。
それとともに、各新聞社・テレビ局の、被告人の実名報道が始まった。

本村洋は、当時高校生だった僕にとってとても衝撃的だった。
23歳の若さで、感情の爆発を理路整然とした言葉に昇華させる能力を持つ本村は、ブラウン管を通して「社会正義」の象徴となっていった。
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「遺族だって回復しないといけないんです、被害から!人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには、死ぬほどの努力をしなくてはいけないんです!」(2000.3)
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人々は次々と本村に「共感」し、同時に犯人を憎むようになった。
僕も、その一人だった。

今回の最高裁の決定を受け、本村は惜しげもなく揺れる気持ちを吐露した。
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「20歳に満たない少年が人をあやめてしまったときに、もう一度社会でやり直すチャンスを与えてあげることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのか、とても悩みました」(2012.2.20)
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この発言にどれほど「計算」が含まれているのか知る由も無いが、おそらくこれは、多かれ少なかれ本音だと思う。
おそらく本村は「A:被害者遺族としての自分」と「B:もし被害者遺族にならなかったらという仮定の自分」を客観視できる人間なのではないか。
そして、あくまで「A:被害者遺族としての自分」として割り切って、13年間の裁判を乗り越えてきたのではないか。

記者会見は、非の打ちどころの無い、模範的な内容だった。
まずは過去の自分を「未熟」と称し、感情を露わにしたことに対する謝罪、マスコミ・裁判官・検察官・警察官さらには弁護団に対する謝辞、先に引用した「社会正義」に対する自らの逡巡、「社会正義」の前に「(死刑制度存置国である)日本の」という接頭辞を付けるところまで、ありとあらゆる立場の人を敵に回さない「完璧な」記者会見だった。

本村は世論を一気に味方に引き寄せる「力」を持ってしまっている。
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「今回の判決に、勝者…なんていないと思うんですね。犯罪が起こった時点でたぶん皆、敗者なんだと思います」(2012.2.20)
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本村の要望は、最初は「死んでくれ」ということだった。
しかし、年月が経った今、本村の要求は「死んでくれ」から「とにかく心から反省してくれ」に変質してきているように見える。
つまり、本村にとって、死刑は「手段」でしかなくなってきている。
ところが、そこで死刑存置を「目的」とする人々から利用されてしまう。
本村はそれに気付いているが、「A:被害者遺族としての自分」は死刑を求刑するより他ない。

本村は、「B:もし被害者遺族にならなかったらという仮定の自分」としては、もしかしたら死刑制度に反対なのかもしれないと思わせる発言をしている。
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「そしてどうしたら、死刑という厳しい刑罰を課さないで済むような社会を実現できるのか、ということを皆で考えていけるようになればな、というふうに思っております」(2012.2.20)
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もし、利用されることに戸惑っているのなら、もし、自分でも想定していなかったほど周りに「社会正義」として担ぎ上げられてしまったのなら、それは敵を作らない、非の打ちどころの無い、模範的なキャラクターの成し得る悲劇と言うしかない。

ずっと求刑してきた「死刑」が確定し、本村はこれからどんな心境になるのだろう。
ものすごく空疎な、心にぽっかりと穴が空いたような、虚しい気持ちに襲われるのではないか。
被告の死刑が執行されれば、その可能性はさらに高まると、僕は想像する。
.21 2012 死刑 comment0 trackback0

森達也『死刑』

 18:20、珍しい友人から電話が掛かってきた。
「今、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「何してんの?」
「今スタバで一人で本読んでる」
「へぇ~、何何?」
「え~、たぶん引くと思うよ」
「あ~、イヤらしい本でも読んでるんでしょ~?」
 スタバでエロ本なんか読むわけない。いいだろう。どんな反応が返ってくるか、言ってみた。
「違う違う、違うよ。あのね、森達也って人の『死刑』っていう本」
 え~ともキャーとも取れる悲鳴めいた返事が返ってきた。ちょっと本当に驚かせてしまっただろうか。
「ブックカバーしてるぅ?」
「いや、俺しないんだよね」
「した方が良いよ~。それかせめて表紙を裏返しにするとか……」
 世の中には色んな人がいて危ないからという、彼女なりの心遣いだった。優しい子なのだ。そして人よりちょっと気ぃ遣いな子。ただ、その想定内の反応が僕にほんの少しの孤独感を味わわせた。

 僕が死刑という制度に関心を抱いたのは、本当につい最近だ。数ヶ月前。新聞の書評でたまたま目に入ってきた「森達也」の文字。『ご臨終メディア』や『クォン・デ』を読んで大ファンになっていた。最近、『視点をずらす思考術』も読んだ。
 余談だが、この『視点をずらす思考術』の中の「ビンラディンへの手紙」には2回泣かされた。森の、この世界や人間(または自分)に対する怒り・哀しみ・葛藤、そして深い愛情が感じられ、心が震えた。
 その森達也の今回のテーマは「死刑」。今日ようやく買って、半日かけて半分くらい読んだ。久し振りに優雅で有意義で、充実した休日だった。

 さて、この死刑制度についてだが、この新聞の書評を読むまではほとんど考えたことが無かった。大学で英会話サークルに所属していた頃、ディスカッションの議題として取り扱ったことはあるから、犯罪抑止力の有無とか新たに終身刑を設けた方が良いという意見があることぐらいは知っていた。あとは、光市母子殺害事件で本村洋氏の主張に耳を傾けていたくらいだ。しかし、それはほんの少し知識を得たぐらいで、死刑制度に対して正面から向き合って思考するのとは違う。
 書評や森によると、死刑の実態は今の日本でははほとんど知られていない。秘密のベールに隠されていて、知る機会も考える機会も無い。だからみんな、知らない自分にも気付かない。日本の死刑は絞首刑だということも、今の若い人たち(あえておっさんくさい表現で書いてみた)は知らなかったりするらしい。

 やられた、と思った。また「教育」の問題が浮上してきた。大学1年のときからこの教育っていう厄介なヤツから遠ざかろう遠ざかろうとしてきたのに、何で教育ってやつはこうやって折に触れて俺を悩ませるのか。
 日本の多くの人々が死刑制度について知ったり考えたりする機会がほとんど無いのは、広い意味で「教育」の責任だ。死刑が行われるのに、われわれの税金が関っていることを考えるだけでも、確かに僕たちは死刑に関っている。「知らない」で本当に良いのだろうか?少なくとも、今よりはもっと多くの人が死刑制度に関心だけでも持つようになった方が、健全な社会だと僕は思う。しかし、関心を持つには、少しでも知識が必要だろう。その知識を与える教育が成されていない。僕たちは知らず知らずの内に国家に、政治に、権力に、メディアに、教育にコントロールされている。戦時中ほどひどくはないにしても。
 そういう意識も少しは必要だろう。僕たちは思考停止するようにしむけられ、小さな点としてここに、そしてそこに留まっている。

 森はこの死刑という迷宮を探るために、実に色んな文献・資料を読んだり、漫画家・刑務官・弁護士・政治家などの色んな人と会ったりしている。『クォン・デ』のときもそうだったが、まがりなりにも修士課程を修了している僕が恥ずかしくなるほどの研究力と行動力。しかし、これだけの研究をしておきながら、森は知識やデータだけでは本質は分からないとしている。死刑の本質は別にあるはずだ、と。僕が森の著作を安心して読める理由はここにある。ハードとソフトのバランスが良いのだ。感性に基づいた知識、データに溺れることの無い洞察力。植物に例えると葦だろうか。しなやかな強さがある。
 そして悩みながら、苦しみながら、あるいは泣きそうになりながら、でも譲れない、いや譲りたくない「何か」を抱えながら森は進んでいく。しなやかに強い情緒・意志も好奇心も人間としての弱ささえも一緒に。
 森の文章はいつも等身大だ。テレビに出てくるような「偉い」人たちとは違う。ちょっと好奇心が強くて、ちょっと疑問に対して素直に反応できて、ちょっと空気が読めなくて、そしてたぶんちょっと人間が好きな「普通」の人。そんな森が満身創痍になりながら進んでいるのなら、俺も一緒に進みたい。ちょっとでも。微力でも。この小さな点の小さな推進力がお茶の間レベルで日本中、あるいは世界中に広がったとき、僕たちの世界はきっと確かに変わる。別の言い方をすれば、そういう変わり方じゃないといけない。特別な「誰かが」じゃない。「カリスマが」でもない。「僕/私が」「あなたが」「彼も」「彼女も」「あいつが」「こいつが」「そいつも」である。

 深夜3時過ぎ、ここまで書いて死刑制度に思いを馳せる。さて困った。俺は高校生のとき、先述の光市母子殺害事件に大変な衝撃を受け、以来、本村洋氏を心の中で応援していた。今でも本村氏の言うことに反論するつもりは無い。正確に言えば「できない」。彼は「当事者」なのだ。僕が経験していない、絶対的に知ることのできない領域にいる。僕は畏れさえ抱いている。そこに踏み込んでいくだけの力も知識も自信も、今の僕には無いのだ。

 ふぅ。

 しょうがない。しんどくてもめんどくさくてもやるしかない。考えるんだ。大丈夫、きっと一人ではない。その気になって探せば仲間はきっとどこかに見つかる。見つからなかったとしても自分で創ることだってできるかもしれない。
 きっと傷つくと思う。でも前を見れば森もいるし、他の人たちも見える。横を見たって、幸せなことにいる!後ろには誰かついてきてくれるだろうか。小さな点でも少しだけ前に出てやる。痛いけど。
 絶望するのは、きっとまだ早い。

死刑
.14 2008 死刑 comment0 trackback0
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