スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)

環境について学ぼう!~東日本大震災を受けて~

 5/15(日)「環境について学ぼう!~東日本大震災を受けて~」に参加した。
 講師である山崎久隆さんは原発の歴史からエネルギー政策まで、分かりやすく教えてくれた。その穏やかな語り口からは、しかし、核を自らの手で扱おうとする人間の愚かさは充分に伝わってきた。

 福島第一原発のある地は、かつて岩がごつごつしていて住みにくく、農業もできない場所だったという。そんな貧しく、他者の助けを必要とする弱みに、国と巨大企業はいつも目を付ける。日本の原発は、数だけならアメリカの半分だが、面積比を考えた「原発密度」はアメリカの13倍になる。日本列島は、どこにも逃げ場の無い「全国放射能管理区域」のようだ。

 茨城・東海村に行ってきた。震度3レベルの余震が一日に何回も起こる異常事態のその地は、日常の中に震災という非日常が入り混じった非現実的な世界だった。塀や屋根、ガラス戸が破損している町並みの所々に「原子力の町」をアピールするのぼりがはためいていた。1950年代、この地にあらゆる原子力施設が集結されて以来、人々は、この村が「原子力」という未来のテクノロジーによって「世界の東海村」になることを夢見た。
 しかし、そんな人々の夢を、ある日、青白い光が切り裂いた。1999年9月30日、JCO臨界事故である。企業の杜撰過ぎる管理、作業員への情報の不徹底が生んだ事件だ。原子力科学館のパンフレットには《この我が国初の臨界事故は、放射線被ばくによる2名の死者を出し、周辺住民の避難や屋内退避、深刻な風評被害をもたらした。》とある。悲惨な死を遂げた2人については、文字通り「触れられているだけ」だった。直後にはそれを打ち消すかのように、風評被害に視点が移されている。「周辺住民」についても、同じく被曝し苦しんだ人々については全く触れられていない。さらに、そもそもJCO臨界事故は「我が国初の臨界事故」ではない。2007年まで公表されていなかったが、1978年と1999年、福島と石川で臨界事故は起きていた。

 核は人類の手でコントロールできるものではない。そのゴミを捨てることすらできない。誤ったとき、コントロールできなくなったとき、その責任は誰がとるのか。はっきり言って誰にも責任などとれない。ならば、核を取り扱うこと自体を止めることが「責任」であろう。浜岡が今「停止状態」だが、再開を前提としたものである。再開されたらもう、再び止めることは難しくなるだろう。
 ぼくたちは、何も知らされていない世界に生きている。原発の誘致が人の命を奪うこと、命は助かっても一生苦しんだ人のこと、その人が命を終える前に奥さんに言った言葉、原発が無くても電気が足りること、臨界事故という重大事が29年間も隠されていたこと、それを臆面も無く未だにそ知らぬ顔をする厚顔無恥な団体・企業・政党が実在すること。こんな大切なことを、誰も教えてくれない。だから、少しでもそういう世界に触れたら想像してほしい。その人たちの営みを。隠した人々の頭の中、歴史の闇に葬り去られた人々の心の中を。

 高い塀に囲まれたJCO敷地の周囲には、たくさんの菜の花が植わっている。多くの放射性物質を吸い込まされながらも、のどかな春の美しさを演出するその菜の花たちは、哀しいほどにこの社会の縮図であった。
関連記事
スポンサーサイト
.01 2011 核・原発 comment0 trackback0

comment

post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackback

trackbackURL:http://gonjunior9.blog25.fc2.com/tb.php/5-98f022cc
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。